一年で一番長い日 73、74「もちろん、あれもあたしよ」驚くべきことを芙蓉は言った。 「・・・え?」 俺はしばらく呆けたように芙蓉の顔を眺めていたが、ハッとしてテーブルの下を見た。 「イヤね。幽霊じゃないわよ。足はちゃんとあるわ」 芙蓉はヒールの高い靴を履いた足を片方上げて見せた。パールの入ったストッキングに包まれた、形の良い足。 「だって、あれは、あの死体は・・・」 俺は口をぱくぱくさせた。眩暈がするほどの大量の赤。真紅の悪夢。・・・胸に刺さっていた銀色のナイフ。 「あのね、血の匂いはした?」 「血の、におい・・・?」 芙蓉は軽く溜息をつき、隣室に行って何かを持ってきた。 「それだけあの演出を信じてくれたんなら、逃げずに騒いでくれれば良かったのに」 そう言って、芙蓉は面妖なものを俺に差し出す。なんだ、このチューブに入った気色悪い赤いものは・・・ 「え、血糊?」 俺は素っ頓狂な声を上げていた。 「そうよ、血糊よ」 芙蓉が駄目押しをしてくれる。 「あれは贋物の血だったのか? 全部? ホントに?」 「本当の血の方が良かったの?」 意地悪げに唇の端を上げる芙蓉。俺は耳に息を吹きかけられた猫のように、ぶるぶると必死に首を振った。 「ち、血糊でいい。っていうか、贋物の血でお願いします」 思わず敬語。 良かった・・・あの大量の血に見えたものがただの演出で。あれが本物なら、絶対失血死だ。って、演出? 「死んだふりしてたってこと?」 頭ではもう分かっていたが、俺は思わず言葉に出して確認していた。俺はクマじゃないんだけど、などと見当はずれなことを心で呟いてみる。 「そうだよ、演出。言ってみればドラマのワンシーン?」 葵が言い添えた。 「ドラマって、」 唇を震わせる俺の反応など知らぬげに、葵は続ける。 「だから。あなたの役は、死体の第一発見者。それなのに騒いでみせる演技もせずに逃亡しちゃったんだから。役者失格だよ」 「俺は役者じゃない!」 俺は椅子を蹴って立ち上がり、葵を睨みつけた。激昂のあまり、呼吸が速くなって息が苦しい。 「俺は、俺は本当に驚いたんだ。これまでの人生で経験したことがないくらい・・・驚いたと同時に、怖かった・・・!」 あの時の衝撃が蘇る。その衝撃が大きければ大きいだけ、怒りが正比例して行く。 あの血糊が人喰いアメーバで、こいつら二人纏めて飲み込まれてしまえば良かったのに。荒唐無稽な考えが怒りで真っ赤になった頭をかすめた。 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ 「うん、ごめん。言い過ぎたね」 じっと俺を見つめていた葵が、頭を下げた。 「知らない場所で目が覚めて、そこで人が血まみれで動かなくなってるのを見たら、誰でもショックを受けて当然だよね」 ショックなんて、そんな生ぬるいもんじゃないっ! 俺はギリッと唇を噛み締めた。 そんな生ぬるいもんじゃない。俺は、文字通り心臓が止まりそうなくらいの衝撃を受けたんだ。 殺した覚えはない。ないけど、もし本当に俺が殺したんだったらどうしよう、とか。そうだったとしたら、娘にどう謝ればいいんだ、とか。元妻や友人知人はどう思うだろう、とか。 単純に血まみれの死体を初めて見た恐怖以外に、心をよぎった諸々のこと。これによって自分の日常が百パーセント変わってしまうかもしれないことへの恐怖、やるせなさ。保身、愛着、後悔、自分への怒り。 ささやかに続くはずの明日を、突然失ったかもしれないと思った、あの絶望。 そんなものが、最大風速何千メートルで俺の中を吹き荒れたと思ってくれるんだ、こいつら。ハリケーンもびっくりだ。何万ワットの風力発電をさせるつもりだったんだ、おい。 「ふざけた言い方をして悪かったよ。ごめんなさい」 頭を下げたまま、葵が言葉を重ねた。芙蓉も「ごめんなさい」と呟き、下を向く。 と、その時、ベッドルームのドアが開いた。眠っていたはずの夏樹が、小動物のように顔を出す。俺の声で目が覚めたんだろう。自分の父と叔父、俺の顔を不思議そうに見つめている。 「え? お、おい・・・」 俺はびっくりした。ぱっと走り出したかと思うと、夏樹はなぜか俺の腰に抱きついたのだ。 「な、夏樹くん、どうしたの? パ、パパはあっちだよ?」 そうだよ、この子はなぜ父親じゃなくて知らない小父さんに抱きつくんだ。俺は思わずしゃがみこみ、子供と目を合わせてそのさらさらの黒い髪を撫でた。 夏樹は小さな手を俺の頬に伸ばした。 「おじちゃん、ないてる」 「え?」 俺は自分で顔を撫で回した。別に濡れてなどいない。 「おじさん、泣いてないよ?」 俺の言葉に、夏樹は子供らしいしぐさで首を振った。 「ないてるもん」 夏樹は今度は俺の首にしがみついた。 「かなしそうなかおしてる。おめめ、真っ赤だもん」 そりゃ、あの時のことを思い出して感情が昂ぶってて、色々ぐちゃぐちゃだし・・・泣きそうといえば泣きそうだけど。男がそう簡単に泣いてたまるもんか。そう思ってそっと小さな身体を離そうとすると、子供は言った。 「だって。ママがしんじゃったときのパパとおなじかお、おじさんしてるもん」 次のページ 前のページ ジャンル別一覧
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